皆様
11月29日の公開研究会「佐渡金山朝鮮人労働者の真相-147人の証言から-」は無事に終了いたしました。ご参加くださった皆様に改めて御礼申し上げます。
李宇衍(イ・ウヨン)博士の講演を拝聴し、佐渡金山は朝鮮人の強制連行・強制労働の現場ではなかったことが改めて鮮明になりました。
今回、李博士は韓国の国家記録院に収録されている一次史料『被害申告書綴』を分析されました。同綴は労働者本人か遺族が作成した「申告書」、委員会が作成した「被害申告調査報告」や「陳述聴取報告書」などで構成されています。李博士はその中で佐渡金山に「強制動員」されたと認定された147人分の綴を閲覧しました。これらは原則非公開でしたが、強制連行や強制労働が事実であると主張する「強制連行派」の人々にのみ閲覧が許されていました。李博士の地道な研究活動によって証言の原文が確認できるようになり、それによって、「強制連行派」が自分たちにとって不都合な個所を隠蔽していたことが明らかとなりました。
戦時中の佐渡金山朝鮮人労働者の様子については、悪辣な環境のために悲惨な死亡事故が多発していたかのように証言が紹介されてきました。しかし、李博士が丹念に分析した結果、事故に関する証言の大半は噂を基にした創作や誇張表現である可能性が濃厚となりました。一次史料(1943年に佐渡鉱業所が作成した「半島労務管理に付て」)では、佐渡の朝鮮人死亡率は約1%で、1年で約3人亡くなっている計算となります。にもかかわらず、申告書では「落盤で1日に何人ずつ死ぬのを見て脱走した」「1日1人ずつ死んだ」などという現実離れした話が記載されています。大半の証言者は事故を目撃していなかったのです。
また、法的拘束力を持つ「徴用」によって佐渡に来た朝鮮人は全体の5.2%に過ぎず、多くの朝鮮人は日本企業からの募集に応じ、自分の意思で佐渡に働きに来たことも判明しました。朝鮮人の戦時労務動員は1939年9月の「募集」形式から始まり、1942年2月には「官斡旋」という形式も追加されますが、日本行きを拒否しても処罰されませんでした。「徴用」形式は1944年9月から開始されたので、強権的に渡日させられた朝鮮人が少ないことは当たり前の話です。勿論、徴用は戦時における法律の範疇であり、日本は韓国を合法的に併合したので法的に何ら問題はありません。
佐渡の労働で得たお金で広大な田んぼを購入したという朝鮮人も数人存在したという新事実に会場から驚きの声が出ました。加えて、日本人に親切にしてもらったという証言も確認でき、佐渡で朝鮮の人々が虐げられていたとは考えられない描写も確認できました。
しかし、こうした陳述も最終的には「強制動員」の被害者として記入されました。
李博士はこの現象が起こる原因として二つの要因を挙げます。第一の理由として、韓国の歴史的背景です。韓国政府は1957年から翌年にかけて、『倭政時被徴用者名簿』を作成しました。同名簿は日本で働いた者が自己申告する形式で編纂されたものです。当時、韓国は日本と国交正常化を交渉中であることから、日本への請求権金額の水増しを目的で名簿が作成されたと李博士は考えています。徴用で動員された人数は約23万人ですが、募集や官斡旋へと拡張すれば約72万4千人に増加します。
第二に、韓国政府の金銭的補償に対する被動員者の期待と要求です。『被害申告書綴』の中には「委員会または政府に望むこと」を問う項目があり、14人が回答していました。そのうち12人は「金銭的補償を望む」と主張しており、補償を要求できる「被害」が認定されるために「強制動員」などを主張しているのではないかと李博士は考察します。
このことから、1950年代の韓国政府の調査と2004年から2015年の「強制動員調査」には金銭的補償という共通の背景が存在していたのです。これらの活動は歴史を記録したのではなく、歪曲された歴史認識を国民に注入し、「歴史を創造する」ことで反日種族的歴史意識を強化したと李博士は批判します。
日本の「強制連行派」の人々も証言の内容を恣意的に取捨選択し、自分たちの主張に都合の悪い部分は隠蔽し、時には歪曲と言っても過言ではない証言編集を行いました。今回の李博士の研究成果を日本国内に浸透させ、「強制連行派」の長年にわたる不誠実な研究手法を白日の下に晒す必要があると思います。

